無題ドキュメント

[HOME]

[前へ][次へ][一覧]


フライング・ハイ
2001/05/08
 私の一週間は出張準備から始まる。昔から寝起きは良いが寝覚めが悪いため、寝坊することは無いのだが、起きてから心身が活動を始めるまでにすこぶる時間がかかる。生来寡黙な方だが、起床後1時間以内に一言以上の単語を口にするのは稀だ。そのため、他人の目にはむやみに機嫌が悪いように見えるらしい。実際には、単に口を利いたり思索したりが億劫なだけなのだが。母親は二十余年も共に暮らしているが、そんな私の性癖を知ってか知らずか、朝食時はいつも、しきりに私に喋りかける。「まあ、自分の子どもを3人も殺すだなんて。あの手の顔は絶対やってるわね。熊に殺されるのってどんな感じなのかしら。熊ってイヌ科の動物だっけ?獲物を埋めるのはイヌ科の動物の行動よね。そうそう、どこかの遊園地でジェットコースターが止まったらしいわね。あれって何で止まったのかしら?どっちにしてもあんたは臆病だからあんなの乗れるわけないわよね。乗っちゃ駄目よ、あんたは生後3ヶ月の時から、観覧車に乗せられただけでぶるぶる震えてたんだから。また失神するわよ。お父さん最近納豆に凝ってるらしいのよ。納豆食べ過ぎて太ったってボヤいてたわ。別に納豆だけが原因じゃないわよねぇ。そういえばあんたも最近太ったんじゃない?今体重何キロあるのよ?少しは運動しないと駄目よ。お兄ちゃん生きてるかしら。相変わらず梨のつぶてだけど。いつも電話で何訊いても『うん』としか云わないのよね。試しに今度、『お兄ちゃん、今すぐ大学の学費全額返して』って云ってみようかしら」。私も平常時ならば、ユーモアとウィットに富んだ当意即妙の返答(どの手の顔だよ、クマ科だよ、余計なお世話だよ、生きてたよ、等々)をするのだが、なにせ寝起きだ。「ああ」とか「うん」だの、梵語のような相槌を打つので精一杯である。女という生き物は、常に喋り続けていないと死んでしまうのだろうか、などと眠い頭で考えてみたりもしながら、のろのろと朝餉を食べる。
 食べ終わるとシャワーを浴び、1週間分の着替えを鞄に詰め込む。ワイシャツとネクタイの組合せにはそれなりに気を遣うが、靴下までは注意が行き届かないことが多いため、うっかり母親の靴下を持っていって途方に暮れたこともある。なにせ丈が足首までしかないのだ。まるでオカマちゃんだ。その日は日がな一日、極力人前で足を広げず、小走りに歩くよう留意したものだ。やっぱりオカマちゃんだ。
 荷物の用意と身支度を済ませ、無言で家を出ようとすると、いつものように母親が駆け寄ってくる。「ハンカチとちり紙持った?あんたこの間歯ブラシ忘れてったでしょう。何回云っても忘れ物するんだから。ケータイ持った?鍵持った?今週はいつ帰ってくるの?車に気を付けるのよ。知らない人に着いて行っちゃ駄目よ。都会は物騒なんだから。アライグマの帽子かぶった人がいたら逃げるのよ」。母よ、貴女は本当に判っているのか。私がすでに四捨五入したら30歳だということを。
 どうにかこうにか家を出て、バス停へと向かう。しかし、ここにも罠は待ちかまえている。私は職業柄出張が多いため、持ち歩いている電車やバスのカードの種類がやたらと多い。数え上げてみると、Jスルーカード(関西JR)、スルッとKANSAIカード(関西私鉄・地下鉄)、IOカード(関東JR)、パスネットカード(関東私鉄・地下鉄)、それに加えてアストラムカード(広島新交通・バス・路面電車)である。ここまで多いと、すでに毎回切符を買っても大差ないのではないかとすら思うが、それもなんだか悔しいので意地で持ち歩いている。そして今現在、乗り込もうとしているのは広島のバスなので、アストラムカードを取り出さねばならない。生来の小心者ゆえ、カードを出すのに手こずってバスの発車を遅らせてしまい、運転手や他の乗客にギロリと睨まれる事態だけはなんとしても避けねばならない。そんな思いから、バス停に辿り着く前にカードを準備しようと財布に手を伸ばした刹那、無情にも私の横をバスが通り過ぎてゆく。慌てて駆け出す私。しかし両手には総重量10kgを超える1週間分の荷物が。格好を気にしている場合ではない。両肩に大荷物を吊り下げ、遮二無二全速力でひた走る。息も絶え絶えに、なんとか列の最後がバスに乗り込む直前に辿り着いた。だが、まだ勝負はこれからだ。騎士の反応速度で財布を取りだし、パラ・サイマルによりカードの束からアストラムカードを選び出す。実際には山勘なのだが。二枚目で取り出せた。ナイス山勘。そして無理矢理動悸を抑え、平静を装ってカードを読み取り機に挿入する。「カツッ」。え?「カツッ、カツッ」。何度やっても読み取り機はカードを飲み込もうとしない。この野郎、俺のカードが食えねぇってのか。食え!さあ食え!と、阿修羅の如き形相でひたすら読み取り機との格闘を続ける私に、見かねた乗客の1人が「あのお、それ壊れてるみたいですよ…」。無言で見つめ合う私とその乗客の背後で、バスの扉が静かに閉じた。
 後部座席から聞こえてくる年輩の女性達のひそひそ声も聞こえない素振りで、平静を装ったまま座席に座る。心の中では「ちくしょうなんで故障してるんだっていうか故障してるならそのように張り紙くらいしておくべきだそれ以前になんであの運転手はなにも云いやがらないんだおかげで余計な恥をかいてしまったじゃないか嗚呼もう今日は一日なにもしたくないこのまま終点まで乗って帰らぬ人となりたいそうだそうしよう」などとブツブツつぶやいているのだが、あいにく終点は最寄り駅なのでそういうわけにもいかない。電車に乗り換え、やはり終点で降りて会社へ向かう。
 出社時の時刻は9時5分。今日は割と早く着いたななどとうそぶく。なにしろ最近定時に出社した試しがない。今日は平常日だからまだしも、ノーフレックスデーでも平気で10時出社などしている始末。お陰でここ半年ほど、全社朝礼にも事業部内朝礼にも部内朝礼にも出席したことが無い。そのうち怒られそうな気もするが、まだ何も云われていないのでとりあえず現状維持とする。
 いつものように仏頂面でフロアに入り、自分の席に向かう。見ると、私の物ではない資料が机上に散乱している。考えるまでもなく、隣席の後輩の物だ。まだ完全に目覚めておらず、喋るのは億劫なままなので、無言でデコピンによる鉄拳制裁を加える。参ったか。本来の私の机上には見事なまでに物が無い。週の殆どが出張中なので、この机で仕事をする事自体が稀なのだ。先だっての席替えの時には、自分の席が無くなっているのではないかと気が気でなかった。だから他人が平気で物を置くし、未だに今年の新人に名前も覚えてもらえない。なんだか悔しいので、社内ではほとんど付けている人の居ない名札をキチンと付けている。さもないと本気で誰からも忘れられてしまいそうなので。
 席に着くと、ほぼ常時携帯している愛機、ThinkPad T20を立ち上げ、出張申請書を書く。これで自社での仕事は終わってしまった。もはや用は無いのだが、せっかくなのでブラウザを立ち上げてだらだらとサイト巡回などしてみる。ほほう、洗濯機が飛び跳ねて大ニュースですか。今日も日本は平和ですね。わあ、武富士が燃えちゃってるよ。踊ってる場合じゃないだろ。れつぎょっ。あらあら、強盗殺人放火ですか。三冠達成。じゃあなくて。今日も日本は物騒ですね。などと物思いに耽っていると、隣で上司が「邪魔だからとっとと行けよ」と云いたげな顔で睨んでいる。もう少しゆっくりしてから行きたかったのに。渋々マシンを片づけ、会社を後にする。
 路面電車に揺られてJR広島駅に辿り着く。券売機にて新幹線の切符を購入。ひかりレールスターのオフィスシートを選択。10分後にもレールスターがあるのだが、駅ビルで買い物してから行きたいので、わざと1本遅らせる。駅ビルの本屋とCD屋でそれぞれ目的の品を購入し、駅構内への連絡通路脇に新しくできたスターバックスコーヒーへ立ち寄る。未だ乳離れできない私が買おうとするのはもちろんスターバックスラテ。だが、列に並んでいる間に一つの疑問が頭をよぎる。「ラテ」と「ラッテ」はどちらが正しい発音なのだ?品書きには「ラテ」と書いてあるが、「カフェラッテ」という云い方もあるし。「コンピュータ」と表記するが、「コンピューター」と発音するのが正しい、というような例もあるし。そういえば数年前に初めて渡米したときに立ち寄ったスターバックスコーヒーで、「かふぇらって」と注文したら「かふぇらーてぃ?」と聞き直された記憶もある。あれは屈辱だった。飛行機内で水をもらおうと思って「うぉーたー」と云ったらコーラを渡されて、そのままにっこり受け取ったのと同じくらい屈辱だった。いや、そうじゃなくて。今はラテかラッテかが大事なんらってば。駄洒落を云ってる場合でもない。そんな暇にもどんどん列は進んでるぞ。バケラッテ。偽O次郎かお前は。あぁ、もう次は私の番だ。どうしようどうしようどうし「ご注文はいかがなさいますか?」「あ、あのその、カフェモカのトールで」。
 ひかりレールスターの座席にて、テイクアウトしたほろ苦いモカを啜りながら、「モカも結構いけるしな。うんうん」と、必死で自分を慰める。つくづく小心者には生き難い世の中である。さて、先ほど「オフィスシート」なる乗車券を購入したと書いたが、これはひかりレールスターの最前列座席のことである。大きめのテーブルと電源コンセントが用意され、ノートPCを広げるのにうってつけの環境となっている。おもむろに愛機T20を立ち上げ、まず先ほど購入したCDをドライブに装填し、MP3エンコーダを起動する。全ての曲のエンコードが完了した後、携帯用MP3プレーヤをUSB接続し、データを転送する。我ながらなんてサイバーパンクなのだろうと感動すら覚える。携帯用CDプレーヤを持ち歩けばその十分の一の手間でできることだなどとは考えもしない。それが済んだら、今度はエディタを立ち上げ、なにやらしたため始める。なにをか云わん、この文章を書いているのである。周囲からは移動時間をも惜しむビジネスマンの様にしか見えまいて。ふはははは。騙されおって愚民ども。と、蒙昧な愉悦に浸りつつ。最近の液晶画面は視野角が広いので、隣席に座す初老の紳士からは、文章の中身が丸見えであったような気もしないでもなかったが。
 夢中で書いていると時の経つのは早い。気づけばもう新神戸だ。そそくさとマシンを片づけ、新幹線を降りる。ホームから、地下シェルターでもあんのかよと云わんばかりの深さまで潜ったところに、地下鉄新神戸駅がある。改札をくぐり抜けようとしたところで、素早く遮断機が閉じ、危うくもんどり打って倒れそうになる。吐き出されたカードを見ると、アストラムカードであった。またやってしまった。やはり平静を装いつつ、スルッとKANSAIカードを取り出して、改めて自動改札を抜ける。心の中ではやはり「もうすこしで足引っかけて転んだ拍子に頭から地面に突き刺さる所だったぞこの野郎まったくちょっと入れるカード間違えたくらいで厳しすぎなんだよっていうか全国どこでも改札抜けられるオールマイティカード作れよドラえもんにお願いするぞ」などと唱えている。成長しない。
 地下鉄に揺られ、やはり終点で降りたそこが目的地である。が、やはり真っ直ぐ出張先に向かうようなことはしない。まずホテルに立ち寄り、荷物を預ける。さすがに半年もの間毎週宿泊しているだけあって、フロントのおねーちゃん達全てにその顔と名前を記憶されているらしい。荷物を差し出しただけで、「お部屋にお入れしておきますね」との快い返事が返ってきた。喋らなくて済むのは楽なものだ。そういえば最近ではチェックイン時に名前を書くことすらした記憶が無い。長期過ぎる出張も考え物だ。
 ホテルを出てその足で出張先に向かう訳でもやはりなく、駅前の本屋まで引き返す。そう、今日は8日。私の地元では発売日を過ぎなければ売り出されないNewtype誌が、此処ではこんなに早く売っているのだ。世に云うフライング販売という奴だ。このためにわざわざ今日に出張日をずらしたと云っても過言ではない。真っ直ぐアニメ誌コーナーに向かう。が、無い。何故だ。目を皿の様にして雑誌群を見渡すが、あるのは先月号が1冊のみ。そんな馬鹿な。これでは神戸まで来た甲斐が無いではないか。ええい、ままよ。確か同じ書店の別店舗が、近くのショッピングモール内にあったはずだ。迷わずそちらへ足を向ける。このまま手ぶらで帰れるものか。帰るっておい、何しに来たんだ。もはや仕事のことなど微塵も頭には無い。が、現実は無情であった。あるのは平積みにされた「いっすえ」(註:『FSS ISSUE』の俗称)のみ。がっくりとうなだれたまま、気もそぞろに駅へ向かう。だから帰るなって。
 そういうわけで私は未だ、Newtype誌を入手できていない。って、それが云いたかっただけなのかよ。
[前へ][次へ][一覧]
F.S.S.S.S. - fssdp server side script system -
Powered by Apache, MySQL, PHP3, and GD
All script and database designed by Shinji Wakasugi