無題ドキュメント

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三つ子の魂
2001/05/20
 初めてPCというものに触ったのは、小学校4年生の時であった。かれこれ15年前のことである。
 当時は任天堂のファミリーコンピュータ全盛期で、ご多分に漏れず、私もファミコンユーザの一人だった。マッピー・ゼビウス・ドルアーガ。ドラクエ・FF・スーパーマリオはまだ無い。通称「カセット」と呼ばれるROMカートリッジの所有本数が、即友人間での評価に繋がり、少年達は必死で小遣いを貯め、カートリッジ購入の為に財を抛った。新しく来た転入生への最初の質問は、「カセット何本持ってる?」と相場が決まっていた。「裏技」と呼ばれる、隠しフィーチャーやバグ利用テクニックを、どれだけ多く知っているかも重要なポイントだ。「256発」と云う真実味のある弾数に踊らされ、謎の壁面型飛行物体に押し潰されたソルバルウの数は計り知れない。
 そのように、他の少年達同様、一介のゲームプレイヤーに過ぎなかった私に、最初の転機を与えてくれた存在がある。知る人ぞ知る、ファミリーベーシックである。最近の若い人達には何の事やら意味不明であろうから、掻い摘んで説明すると、ファミコンに簡単なプログラミング機能を持たせる為の拡張機器である。BASIC言語が使用可能だったが、なにせ基本がファミコンだ。メインメモリのフリーエリアは実に2キロバイト。503iシリーズ携帯電話の5分の1である。
 しかし、ファミコンがベースであったことから、ちょっとしたゲームプログラミングには適していた。スプライトと呼ばれる、16 * 16ドットのキャラクタを容易に操れたこと、ファミコンのコントローラを入力装置として使用できたことなどから、それなりに遊べるゲームはアイデア次第でなんとか作れたものだ。雑誌に掲載されているプログラムを打ち込んだり、それを改造したりしてプログラムの基本を覚える。小学生であるから、“IF〜THEN”であるとか“FOR〜NEXT”などのステートメントは、意味はおろか読み方すらも判らない。「アイエフ・ティーエッチイーエヌ」、「エフオーアール・エヌイーエックスティー」などと読んでいた記憶がある。キーボードの打ち方も全くの自己流だ。未だにその頃の癖が抜けきっていない。作ったプログラムは、カートリッジ内のSRAMに保存も出来たが、1ファイルのみという制限があった。それ以上のプログラムを保存したければ、オーディオケーブルでカートリッジをラジカセと接続し、音楽用カセットテープに記録するのだ。2キロバイトほどのプログラムの保存に、5分程度かかる。もちろん、テープ内のファイルを一覧表示する機能などあるはずがない。カセットテープは順次読出(シーケンシャルリード)であるから、ファイル名だけを読み出そうとしても、テープの始めから終わりまで読み込まねばならないからだ。よって、ファイル名を忘れてしまったら、ハイ、それまでよ。今から考えたら恐ろしい話ではある。
 そのように、プログラミングの楽しさを覚えていった私に、第2の、決定的な転機が訪れることとなる。ある日のことだ。いつもの様に学校から帰宅した私は、いつもの場所にファミコンが無い事に気づいた。直後に帰宅した兄に聞くが、知らぬと云う。ははあん、母だな。母親が隠したに違いない。そう確信して、家中の物置を探し回る。だが、やはり見つからない。間もなく帰宅した母親に問いただす。これは何かの罰なのか。ならば私が悪かった。帰ったらすぐ宿題をする。家事の手伝いもする。そろばん教室もサボらない。嘘もなるべく吐かぬようにする。だから返してくれたまえよ。だが、母親の返答は「なんのことだか判らない」であった。数日経った後、遂に私は一つの結論を受け入れざるを得なくなった。「誰かが僕のファミコンを盗んだ」という結論を。
 今から考えると、相当な笑い話である。おそらく犯人は、同級生の誰かだろう。私の家には、常に同級生の何人かが遊びに来ていた。その中には、未だファミコンを持っておらぬ者も何人かいた。この事件の直後に、突然ファミコンを買ってもらったと吹聴していた者の話も聞いた。当時のファミコン人気が如何ほどであったか窺い知れる逸話である。が、当時小学生の被害者には、計り知れないほどショックであった。なにせファミコンが無くなったのだ。十数個のROMカートリッジと共に。中には友人と交換していた借り物も含まれていたのだが、交換元のカートリッジで補填させてもらった。ところで、その当時から笑えたのが、ファミリーベーシックだけは残されていたことだ。おそらく犯人の少年には、これが何のためのものなのか理解できなかったのだろう。まあ、友人のファミコンを盗む程度の奴なのだから、その知恵の程も知れたものだ。しかし犯人は、サン電子の「いっき」はしっかり持って行っていた。ということは何か、ファミリーベーシックは「いっき」以下か。
 さて、当時も今も、一つの事にあまり拘らないのが私の美徳である。すでにファミコンの次の玩具へと、興味の対象は移っていた。云うまでもなく、PCである。
 ファミコンを盗まれる数ヶ月ほど前から、ファミリーベーシック用のプログラムが掲載されている雑誌を毎月買っていたのだが、それは元来PC雑誌であった。当然、様々なPC用のプログラムや、市販ゲームの記事が多く載っている。ゲームの画面写真など見ると、明らかにファミコンなどとは比ぶべくもない程に美しい。当時から他人と同じ事が嫌いだった私には、たまらなく魅力的に写った。他の誰も、このような玩具を持ってる者などいないのだ。そして、プログラミングの機能においても、ファミリーベーシックとは桁違いに優れているらしい。これはもう、買うしかないではないか。
 当時は丁度、8ビットPC戦国時代と私が勝手に呼んでいる時代で、各家電メーカーは挙って独自アーキテクチャのPCを販売していた。NECのPC-6001/6601/8001/8801シリーズ、富士通のFM-7/77シリーズ、シャープのX1シリーズとMZ-700/1500/2000/2200シリーズ、日立のS1シリーズ、松下電器のJR-100/200シリーズ、東芝のパソピア5/7シリーズ、SONYのSMC-777シリーズ等々、枚挙に暇がない。バンダイのRX-78などという、冗談としか思えないようなネーミングのPCもあった。そらあんた、モビルスーツの型式番号やがな。NECは他にPC-9801シリーズを当時から販売していたが、これは16ビットと呼ばれる高級機であったため、小学生の身には高価すぎた。このように、まさに百花繚乱という言葉が似つかわしい、独自PC乱立の時代であったのだ。
 これら全てのマシンには、基本的に互換性が無い。今でこそPCには、WindowsかMacかと云う、2種類の選択肢しか基本的に無い(LinuxはまだPCと云える存在ではない。BeOS?まだあったの?)が、当時は無限とも思える選択肢があった。同じメーカーのマシン、たとえばPC-6001と8801の間にすら、互換性は無かったのだ。そのため、各ソフトハウスは、様々なメーカー・ブランドのマシンの中から、いくつかのハードウェアを限定して、それら専用のソフトを販売していた。自然、販売されるソフトの数で、そのブランドの人気は上下し、それによりPCの自然淘汰がなされていった。よって、購入機種の選定は、現在より遙かに重要な事案であった。VAIOだろうがSOTECだろうが、同じソフトが動くと云うことは、基本的な部分は完全に同一だということだ。しかし、FM-7のゲームやプログラムは、S1でもMZ-1500でも動かない。
 最終的に、私と兄が相談して購入を決めたのは、シャープのX1だった。決定的な購入動機が何であったか、実ははっきり覚えていない。ただ、最も多くゲームソフトが発売されていたハードが、PC-8801とX1であったので、この2者に絞られたのは間違いない。後者を選んだのは、価格が安かったからだろう。といっても、中古だったのだが。当時、新品のPCは本体だけで20〜30万円くらいした。今の携帯電話ほどの演算速度のPCが、である。中古のX1Csは、5万円くらいしただろうか。兄と2人で貯金を出し合って購入した。ちなみに、CPUはザイログ社のZ80Aでクロック周波数は4Mhz、メインメモリは64KB、外部記憶装置は内蔵カセットテープドライブだった。
 程なく、X1の実機が届けられた。喜び勇んで梱包を解き、早速テレビへ接続しようとする。が、何かがおかしい。テレビと接続するケーブルらしきものはあるのだが、その端子の形が、テレビに付いているどの端子とも一致しないのだ。そう、子どもの浅知恵という奴で、PCというものはファミコン同様、家庭用テレビに接続出来るものだと信じて疑っていなかったのだ。雑誌を読み漁って、専用モニタなるものが必須である事を知ったときは、絶望にも似た徒労感に苛まれたものだ。X1専用のディスプレイ(当時はモニタにすら、殆ど互換性が無かった)は、中古でも7〜8万はする。今からお金を貯めても、購入できるまで何年かかることか。
 そうして鬱々とした日々を送っていたある夜、父親が妙な事を云いだした。
「これから帰ったらすぐ宿題をするか?家事の手伝いもするか?そろばん教室もサボらないか?嘘も吐かないか?」
なんだかどこかで聞いたようなセリフだが、これは父親が何か買ってくれるときの常套句だ。言下にはいはいはいはいはいと答える。はいは一回で良い。すると父親は、車の方へ行き、トランクからなにやら段ボール箱を持ってきた。開けてみるとそこには、紛れもなくシャープ純正X1用のディスプレイTVが入っていた。買ってきたのならすぐそう云えば良いものを、さすがに私の父親だけのことはあって、このような勿体ぶった演出が大好きなのだ。とりあえず小躍りして喜ぶ私と兄。しかしながら、今にして思えば、父親はどのようにして間違いなくX1用のディスプレイを購入できたのだろう。未だに、キーボードはおろかマウスにも触れたことすら無い父親が、である。我々が購入したマシンのメーカーすら知り得たとは思えないのだが。私の祈りが神に通じ、父親に天啓を与えたとしか思えない。神様有難う。が、天啓も完全では無かったようで、ローズレッドのX1本体に対して、父親が買ってきたディスプレイはメタリックシルバーであった。
 その後は大方の予想通り、宿題もうっちゃり手伝いもせず、そろばん教室なら今日は休みだなどと大嘘を抜かしつつの、PC三昧の日々を送ることとなる。ゲームもたくさん遊んだ。カセットテープであるから、開始するまで30分待ち、その後も一つの面をクリアするごとに10分待ちなどというゲームもざらだったが、辛抱強く遊んだ。現在の私の忍耐力は、当時培われたものだと確信している。もちろんプログラミングにも精を出した。オリジナルのゲームもいくつも作った。友人達に云わせれば、「これ以上ないほどのクソゲー」との事だったが。てやんでい。
 それから、時代の流れと共に、私の所有機種も幾度も変わりゆき、今ではPCを使うことを仕事にしている次第だが、あの頃も今も、PCとプログラミングに対する思いは、基本的に変わっていない。ファミリーベーシックやX1でゲームを作るのも、汎用機やPCサーバで業務システムを構築するのも、自分の意図したとおりにコンピュータが動いてくれる愉しさに違いは無い。
「これはきっと、将来役に立つよ」
小学生の頃、日曜日の明け方から、オリジナルゲームの改造に勤しんでいる私を見て、父親が母親に云った言葉が忘れられない。お父さん、貴方の云った通りになりましたよ。でもお父さん、僕はあの頃から、毛ほども成長していないような気がしてならないのですが。あんたのせいだ。
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